細川ガラシャ

散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ

散るべきときに散るからこそ、この世における、花も花として美しく、人もまたそうなのだ。

概要

細川ガラシャ(1563 〜 1600)は、明智光秀の三女で、才色兼備として知られ、戦国時代の女性のなかでも特に知名度の高い人物です。ガラシャの本名は、明智玉と言い、38歳という若さで亡くなります。

織田信長の勧めによって、小倉藩初代藩主の細川忠興の妻になった細川ガラシャ。しかし、明智光秀の手によって起きた本能寺の変で状況は一変。謀反人の娘ということで、信長の家臣から狙われることを心配した忠興は、細川ガラシャと離縁し、幽閉します。その後、秀吉の許しによって幽閉が解かれ、細川の屋敷に戻ると、キリスト教に傾倒するようになります。それから、やがて洗礼を受け、「ガラシャ」という洗礼名を受けます。

このガラシャという名前は、ラテン語で「恩寵(神の無償の賜物)」を意味する「Gratia」に由来し、本名の「玉」に「賜物」という意味合いがあることから付けられたという話もあります。

秀吉の死後、実権を握った徳川家康に対し、石田三成が挙兵。ガラシャの夫の細川忠興は、徳川家康に従い、上杉征伐に出陣。忠興は、屋敷を離れるに当たって、「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と家臣に命じます。

そして、その隙に、石田三成の軍勢が取り囲み、屋敷にいた細川ガラシャに人質となることを要求するも、その要求を拒み、ガラシャは自死を選びます。ガラシャは、家臣への指示を済ませ、子どもたちへの形見の品や手紙を確認したのち、キリスト教では自殺が禁じられていることから、家老の小笠原少斎に胸を槍で突かせて絶命します。

細川ガラシャの辞世の句は、「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」です。現代語訳すれば、「散るべき時を知っているからこそ、世の中の花も花として美しく、人もまたそうなのだ。」という歌で、さらに言えば、「散るべきときに散るからこそ花も人も美しい」とも言えるかもしれません。命においては、死があるからこそ生も輝きを持ち、この終わりの覚悟が、生の美しさに繋がる。まさに「辞世の句」にふさわしい歌と言えるでしょう。

ちなみに、この「散りぬべき──」という辞世の句があまりに有名なこともあり、それほど知られてはいませんが、細川ガラシャは、他に二首の辞世の句らしき歌を残したと言い伝えられています。

露をなどあだなるものと思ひけんわが身も草に置かぬばかりを

露をなぜ儚いものと思うのだろうか、私の命も、草の上に置かないというだけの違いで、同じように儚いものであるのに。

この和歌は、細川ガラシャ本人の作品ではなく、『古今和歌集』にある、藤原維幹の歌を、そのまま引用したようです。

先立つは今日を限りの命ともまさりて惜しき別れとぞ知れ

あの世へ先立ち、命が今日限りということよりも、口惜しいのは貴方との別れなのです。

こちらの和歌は、ガラシャ作とされ、今日を限りに命が終わるということ以上に、あなたと別れることのほうが辛い、という愛しい人への最後の別れの歌です。