伊達政宗

曇りなき心の月を先だてて浮世うきよの闇を照してぞ行く

先の見えない暗闇の世を、心のなかの雲一つない月の光を頼りに歩いてきたのだ。

概要

伊達政宗(1567 〜 1636)は、出羽国と陸奥国の武将、戦国大名で、近世大名としては、仙台藩の初代藩主です。江戸時代前期まで生き、68歳のときに亡くなります。

戦国武将として今なお人気の高い伊達政宗。政宗と言えば、「独眼竜どくがんりゅう」。政宗が幼少の頃、天然痘と考えられている死に至る病に罹り、その際、一命はとりとめたものの、片目の視力を失い、瘢痕が残り、その見た目に由来し、のちに「独眼竜」と称されるようになります。

相当な実力者だったと言われ、生まれる時代がもう少し早ければ天下人になったのではないか、とも言われています。

伊達政宗は、豪胆なエピソードもある一方、教養の深い文化人でもあり、漢詩や和歌の腕前は戦国屈指。茶道をたしなみ、能楽の愛好家としても知られるなど、「文武両道」を代表する大名でした。

武将のなかでも多くの漢詩を書き残し、また、和歌に関しても、同時代の人々だけでなく、後世においても高い評価を受けるほどの力があり、優れた歌人としての側面もあったようです。

豊臣秀吉の歌会に参加した際には、武将たちの歌のなかで政宗の和歌がもっとも優れていたそうで、作家の司馬遼太郎も、自身の小説で、「歴史上高名な武将のものとしては古代中国の曹操にも比肩すべきものとしており、政治家としての側面にはその詩心が反映されていないことも二人の共通点である」と書いています。

その伊達政宗の残した和歌のなかでも有名なものとして、辞世の句である、「曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く」という歌があります。

これは、現代語訳すると、「先の見えない暗闇の世を、心のなかの雲一つない月明かりを頼りに歩んできたのだ」という意味になります。

この先どうなるのか、先の見えない暗闇の世において、自分の信じる道を、雲一つない夜空に浮かぶ月明かりのようにして歩んできたのだ、という意味合いで、孤高という表現が似合うようなかっこいい辞世の句になっています。

また、伊達政宗には、二通りの辞世の句があるとされ、もう一つの歌が、死の一ヶ月前に長女の五郎八姫に宛てた、「くらき夜に真如の月をさきたててこの世の闇を晴してそ行く」です。

前者の辞世の句よりも、さらに数ヶ月のち、死に近いときに書かれた歌だと言います。真如とは、「ありのままの姿、永久不変の真理」といった意味です。仏教では、悟りを月に見立て、「真如の月」と表現し、永久不変の真理という月明かりによって闇が照らされ、迷いが晴れる、といった意味合いとして捉えられます。

そのため、現代語訳すれば、「暗い夜に、真理の月明かりを頼りとして、この世の闇を晴らしてゆく」といった形になります。死をいよいよ深く悟った伊達政宗が、より穏やかな心地で残した辞世の句だったのかもしれません。

ちなみに、政宗は、死に際して、自分の弱っていく姿を妻の愛姫めごひめに見せたくないからと、会うことを拒絶した、というエピソードが残されています。

──政宗の病が重くなるにしたがい、愛姫は何度もお見舞いに行きたいと願ったそうです。しかし、政宗はその願いを聞き入れませんでした。その理由は、もし病気が良くなるようなら愛姫に会いたいが、病気は重くなるばかりであり、そのような自分の姿を見せたくはない、というものでした。死に向かう自分の姿を、最愛の妻に見せたくない、悲しませたくないという政宗の心情と、それを受け入れ、以後二度と会いたいとは言わなかったという愛姫。両者の思いの深さを感じさせます。(三春町歴史民俗資料館