吉田松陰
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
私の身がたとえ武蔵の地で朽ちてしまったとしても、大和魂だけはこの世に留めおきたいものだ。
概要
吉田松陰(1830 〜 1859)は、29歳という若さで死没(死因は、斬首による処刑)する、日本の近代化に大きな影響を与えた幕末の武士、思想家、教育者です。
ペリー来航を機に国防意識の高まった吉田松陰は、再航したペリーの黒船に密航を企てるも、失敗して自首し、荻の野山獄に入ったのち、実家の杉家に幽囚。この地で、松下村塾を開塾し、高杉晋作や伊藤博文など多くの志士たちを育てます。
その後、吉田松陰は倒幕を主張し、再び投獄されると、安政の大獄で江戸に送られたのち、処刑されます。処刑日は10月27日であり、執行の直前の10月25日未明から26日にかけ、吉田松陰は、門人や同志に当てた遺書『留魂録』を書きます。
この『留魂録』の冒頭に記した辞世の句が、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」です。これは、現代語訳すれば、「処刑され、自分の身がこの武蔵の地で朽ち果ててしまおうとも、大和魂だけはこの世に留め置きたい」となります。
また、辞世の句としては、他に『留魂録』の末に「かきつけ終わりて後」という形で、以下の和歌も松陰は残しています。
心なることの種々かき置ぬ思ひ残せることなかりけり
わが心にある事々は書いておいた、思い残すことはないだろう。
呼びだしの聲まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
処刑の呼び出しの声を待つほかに、この世に待つことは何もない。
討れたる吾をあわれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
処刑された私を哀れと思う人は、天皇陛下を崇め西洋列強を打ち払っておくれ。
愚かなる吾をも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
愚かな私を友として愛してくれる人は、私の友人たちも愛してほしい。
七たびも生きかえりつつ夷をぞ攘はんこころ吾忘れめや
七回生まれ変わっても、攘夷の心を私は忘れない。
加えて、遺書の第8節の文章にも、吉田松陰の死生観が深く綴られています。「今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである(『留魂録』第8節の現代語訳全文)。