西行
願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
願うことなら、桜の花の咲いている下で春に死にたいものだ。(釈迦が入滅したとされている)陰暦の2月15日の満月の頃に。
概要
西行法師(1118 〜 1190)は、検非違使左衛門尉佐藤康清の子供として生まれ、本名は、佐藤義清と言います。
もともとは武士で、23歳のときに出家。西行は、僧侶や放浪の歌人として知られ、『新古今和歌集』にはもっとも多い94首の作品が収められています。のちの時代では、松尾芭蕉も、西行を師として仰いでいます。
西行が出家した理由は、近しい者の急死や失恋などの説がありますが、詳しいことは分かっていません。
西行は、桜を愛し、作品でも桜の歌が多く残っていますが、西行にとって桜を詠んだ和歌のなかで代表作と言えば、辞世の句である、「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」が挙げられます。
この西行の和歌は、『山家集』に収録され、現代語訳すれば、「願うことなら、桜の咲いている下で春に死にたいものだ。(釈迦が入滅したとされている)陰暦の2月15日の満月の頃に」となります。
冒頭の「ねがわくは」とは、「願うことは。望むことは。どうか。」といった意味で、「願わくば」という形で使われることもあります。続く「花」とは、西行の愛した桜のことで、春、花びらが咲いては散っていく桜の下で死にたい、という想いが歌われています。
後半の句にある、「如月」は旧暦の2月で、「望月」とは満月を意味します。旧暦の2月の満月の日というのは、お釈迦様の入滅した日であり、同じ頃に自分も死にたい、と西行は願ったのでしょう。そして、実際に、この辞世の句にある通り、西行は、陰暦の2月16日に亡くなったと言われています。享年73歳でした。歌に詠んだ通りの西行の死は、人々に感銘を与え、語り継がれたそうです。
西行の死因は不明ですが、なぜこれほどぴったりと辞世の句にあるような頃に死を迎えることができたのか、宗教学者の山折哲雄氏は、西行の死は自然死ではなく計画的な自決だったのではないか、と指摘しています。
釈迦の境地に近づくために、釈迦の命日に死を迎えるように、何日ものあいだ断食、断水をし、自らの意思によって絶命したのではないかと推測しています。山折氏曰く、実際、平安・鎌倉期の高僧は、自ら死期を悟ると、断食をし、安らかな自死を選んだということがあったようです。
実際のところは分かりませんが、無常と向き合ってきた西行が、自身の終わり方に対し、穏やかな形で、より意識的に関わった可能性もあるのかもしれません。
ちなみに、西行の作品で、桜とともに無常観を詠んだ歌として、「世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせむ」があります。
これは、『新古今和歌集』に収録されている和歌で、現代語訳すれば、「世の中を思うと、全てが散る花のように儚く、他ならぬ我が身もそうなのだが、それにしても我が身は一体どこへ行くのだろうか」といった意味になります。
無常観について考え、桜を愛した西行の残した桜の歌の数は、200首以上に及んでいます。