源義経
後の世もまた後の世もめぐりあへ染む紫の雲の上まで
後世も、またその後世もめぐり逢おう、あの紫に染まった雲の上の浄土まで(一緒に行こう)。
概要
源義経(1159 〜 1189)は、平安時代末期の武将で、幼名は牛若丸と言います。鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝は、異母兄に当たります。義経は、まだ若く、31歳で死没します。死因は、自害でした。
兄の頼朝に追われ、追い詰められた義経は、妻子とともに奥州平泉に向かいますが、最期は戦うことなく、持仏堂にこもり、愛刀で妻とまだ幼い娘を殺し、義経も自害します。
源義経の辞世の句として残されている和歌が、「後の世もまた後の世もめぐりあへ染む紫の雲の上まで」という歌です。現代語訳すると、「後世も、またその後世もめぐり逢おう、あの紫に染まった雲の上の浄土まで(一緒に行こう)」となります。
これは、義経の忠臣である武蔵坊弁慶の「六道の道の巷に待てよ君おくれ先立つ習いありとも」という辞世の句への返歌として、義経が詠んだとされます。弁慶の辞世の句は、「冥土の道の途中で待っていてください、たとえ死の順番に前後はあったとしても」という意味になり、冒頭の六道とは、仏教のなかで、衆生が輪廻すると教えられている六つの世界のことを指します。
弁慶と言えば、「弁慶の立ち往生」という言葉も有名な伝説として残っています。「武蔵坊弁慶が衣川の合戦で、源義経を守るために、大なぎなたを杖にし、橋の中央に立ったまま矢面に立って死んだという伝説。また、進退きわまり、どうすることもできないことのたとえ。(弁慶の立ち往生 – コトバンク)」
互いの辞世の句も、源義経と弁慶の固い絆が伝わってくる和歌と言えるでしょう。