柴田勝家
夏の夜の夢路はかなき後の名を雲居にあげよ山ほととぎす
夏の夜の夢のように儚い人生だったが、死後私の名を、雲がある大空のように高いところに向かってあげておくれ、山ほととぎすよ。
概要
柴田勝家(1522 〜 1583)は、織田家の家臣として仕え、本能寺の変の後、豊臣秀吉と対立。賤ヶ岳の戦いで秀吉に破れ、北ノ庄城で秀吉軍に城を囲まれた勝家は、妻のお市とともに自害します。
この「夏の夜の夢路はかなき後の名を雲居にあげよ山ほととぎす」という歌は、その際に勝家が詠んだとされる辞世の句です。
織田信長の妹であり勝家の妻のお市が、「さらぬだにうち寝るほども夏の夜の別れをさそふほととぎすかな」と詠み、勝家が応じた歌とされています。このお市の歌は、「ただでさえ眠るまもないほど短い夏の夜に、別れを誘うようにほととぎすが鳴いていることだ。」という意味です。
武将にとっては、身体の死の後も残るものとして名があり、見事な死に方を願う武将も多かったようで、柴田勝家も、見事な死に様を求め、辞世の句を詠み、切腹し、城とともに焼けて消えます。
この辞世の句は、現代語訳すれば、「夏の夜の夢のように儚い人生だったが、死後この私の名を、雲のある大空の高いところにあげていってくれ、ほととぎすよ」という歌で、死後の名というものに対する深い想いが込められています。
また、勝家は、辞世の句を詠むだけでなく、談話の巧みな身分のある老女を呼び、自らの死に様を目撃させ、城から出し、敵に詳しく語らせたと言われています。そのため、籠城し、全員が焼け死んだにもかかわらず、柴田勝家の死に様は後世に残っているのだそうです。
勝家が辞世の句を詠むに当たって本歌としたのは、三好長慶らに殺された足利義輝の辞世の句と考えられています。
五月雨は露か涙かほととぎすわが名をあげよ雲の上まで
この五月の雨は、儚いただの露であろうか、それとも私の涙であろうか、ほととぎすよ、どうか私の名を雲の上の高いところまであげておくれ
義輝も、勝家も、死んだ季節は、旧暦の夏であり、ほととぎすが夏の鳥であることから詠まれています。また、ほととぎすは、別名「死出の田長」とも称され、冥土に通う鳥とされていたことも、この鳥が辞世の句として詠まれた理由だったようです。