豊臣秀吉
露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢
露のように生まれ、露のように消える、私の儚い人生だった。大阪で築いた栄華の日々も、まるで夢の中のようだ。
概要
豊臣秀吉(1536 〜 1598)は、戦国時代、安土桃山時代の大名であり、織田信長の跡を継いで天下を統一します。
貧しい農民の家に生まれたと言われていますが、足軽の子という説もあり、生まれた場所も、尾張国愛知郡の中村とされているものの、厳密に分かっておらず、幼少期のことも詳しくは分かっていません。
8歳の頃に、光明寺に預けられ、奉公するも、追い出され、15歳の頃には、針を売りながら東海道を東に向かったそうです。
その後、小者として織田信長に仕えた秀吉は、身分は低かったものの、冷えた草履を懐に入れて温めておいたという逸話も残るなど、機転を効かせた対応を行なっていたこともあってか、次第に重用されるようになります。
さらに、活躍を続け、重要な地位に上り詰めると、本能寺の変で信長の死後、明智光秀、柴田勝家を倒し、四国、九州征伐。小田原北条氏を滅ぼし、天下統一を果たします。
晩年、病状が悪化した秀吉は、死期を悟り、前田利家と徳川家康に、息子の秀頼のことが気掛かりだという心配の言葉を残し、また、いよいよというときに書いた自筆の遺言状にも、「返す返す、秀頼の事、頼み申し候」と綴っています。まだ幼い息子の将来が、心配でならなかったのでしょう。
秀吉の死因に関しては諸説あり、はっきりとは分かっていませんが、病によって62歳のときに亡くなります。
その豊臣秀吉の辞世の句として知られる和歌に、「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」という歌があります。
これは、現代語訳すると、「露のように生まれ、露のように消える、儚い人生だった。大阪で築いた栄華の日々も、まるで夢の中のようだ。」となります。浪速というのは、大阪を意味する古語です。
立身出世を果たし、天下人となった秀吉でさえ、死の間際になって振り返ってみたときに、自身の人生は、露のように、また夢のように儚いものだった、と感じ入るものだったのかもしれません。