与謝蕪村
白梅に明くる夜ばかりとなりにけり
冬が終わり、ほころび始めた白梅が、夜明けとともにうっすらと見えてくる季節となった。
概要
与謝蕪村(1716-1784)は、現在の大阪の郊外に生まれた江戸時代中期の俳人・画家であり、松尾芭蕉、小林一茶と並び、江戸時代の三大俳人とも称されています。蕪村の作品は、絵画的な表現や叙情性に富み、画家としての感性も活かし、情景を描き出すのが特徴です。
絵の師匠は分かっていないものの、いつの頃か絵を描くようになり、また二十歳前に江戸に発つと、俳人であり画家である巴人に師事し、俳句を学ぶようになります。そして、生活の糧のために、南画の画家として活動し、絵描きとしての地位を築き上げていきました。
俳句も、学びは続けていたものの、本格的に花が開くのは、年齢を重ねてからだったようで、この絵と俳句という二つの感性によって、絵画的でもある蕪村独自の表現に到達します。代表作としては、「菜の花や月は東に日は西に」という句があります。菜の花が咲く春の夕暮れの情景を描写した、写実的な作品です。
その蕪村の辞世の句として、「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」という句があります。現代語訳(意訳)すると、「冬が終わり、ほころび始めた白梅が、夜明けとともにうっすらと見えてくる季節となった。」といった意味合いになります。
季語は白梅で、季節は春。冬が終わり、夜明けとともに白梅が際立ち見える春の季節となった、という情景を描いているのでしょう(あくまでこれは新春の到来を待ち望んだ句で、辞世の句ではないという指摘もあります)。
晩年、病気がちだった蕪村は、病床にあり、今際のときだった12月の末頃、弟子たちを呼び、自分の句を書きつけるように言います。そのとき詠んだ辞世の句は、全部で三つあり、「冬鶯むかし王維が垣根かな」と「うぐひすや何ごそつかす藪の霜」、それから、先の「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」になります。
冬鶯むかし王維が垣根かな
鶯が鳴いている。(南画の始祖であり唐の詩人の)王維が昔住んでいた家の垣根でも鶯が鳴いていただろうか。
うぐひすや何ごそつかす藪の霜
鶯は、何をがさごそしているのだろう、霜の降りた藪のなかで。
まだ冬ではあったものの、春の到来を待ち望み、蕪村の想像のなかでは、新春を迎える光景がもう浮かんでいたのかもしれません。