旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
松尾芭蕉 一六九四

「病中吟」と前書きのある句で、芭蕉が亡くなる四日前に詠まれました。広く辞世の句として知られていますが、芭蕉自身は辞世として詠んだのではないのではないかとも考えられています。

現代語訳

旅の途中で病に伏し、それでも夢は枯野をかけめぐっている。

松尾芭蕉は、江戸時代の俳人で、一六四四年、伊賀国——今の三重県——に生まれました。十三歳の頃に父を亡くし、十九歳頃には、伊賀の藤堂新七郎家に奉公するようになります。仕えたのは、家の若殿である藤堂良忠。芭蕉より二歳ほど年上で、互いに俳諧をたしなむ間柄でした。

しかし、一六六六年、良忠は二十五歳の若さで亡くなります。その後、芭蕉は京都へ遊学し、やがて俳諧師としての道を歩み始めます。伊賀へ戻ったのち、一六七二年、二十九歳頃に江戸へ下ります。俳諧師として身を立てるため、活動の場を江戸に求めたのでした。

そして、芭蕉は旅の人として、土地や人との出会いを句にしていきます。一六八九年、芭蕉は門人の曾良を伴い、江戸を発ちます。東北から北陸へと各地を巡る、約五か月にわたる旅でした。この旅をもとに、のちに紀行文学『おくのほそ道』が生まれます。旅先では名所旧跡を訪ね、土地の俳人たちと交流しながら句を詠みました。旅は素材を集めるためだけのものではなく、書くこととひと続きのものでした。

一六九四年の秋、芭蕉は故郷の伊賀から大坂へ入ります。門人どうしの仲たがいを収めるための旅でもありましたが、大坂で体を壊し、床に就きます。

芭蕉は門人を呼び、「病中吟」と前書きをつけて一句を書き取らせました。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻めぐる」。現代語訳すれば、「旅の途中で病に伏し、それでも夢は枯野をかけめぐっている」となります。

このとき「なほかけ廻る夢心」という別案も示していたそうで、最期が近づくなかでもなお、言葉を選び直していたことが伺えます。

この「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という句は、芭蕉の辞世の句として広く知られていますが、あくまで病中に詠んだもので、本人としては死を意識して辞世を詠んだつもりはなかったのではないかとも言われています。

枯野は、草が枯れ果てた冬の野。そこを、動けなくなった体を残して、夢だけが走っている。書くこととともに旅を続けた人の最後の一句です。

松尾芭蕉
一六九四年没

一六四四年、伊賀国(現在の三重県伊賀市)の生まれ。本名は松尾宗房。三十歳前後で江戸へ下り、のちに深川の草庵に移った。門人から贈られた芭蕉の株が庵の名となり、そのまま号になる。一六八九年に『おくのほそ道』の旅に出て、以後も旅を重ねた。一六九四年、陰暦十月十二日に旅の途中の大坂で没した。五十一歳。