宗鑑はどちへと人の問ふならばちと用ありてあの世へと云へ
山崎宗鑑 一五五三

現代語訳

宗鑑はどこへ行ったのかと人が尋ねたら、ちと用があってあの世へ行った、と言っておいてくれ。

山崎宗鑑は、室町時代の末に生きた連歌師・俳諧作者で、荒木田守武とともに俳諧の祖と呼ばれています。当時の俳諧は、連歌の座の息抜きや遊びとして詠まれることが多く、その場で消えていくものでした。それを書き留め、一冊にまとめたのが宗鑑です。

近江国志那村、現在の滋賀県草津市の生まれで、俗名は志那弥三郎範重と伝わります。幼い頃から室町幕府九代将軍・足利義尚に仕えます。一四八九年、義尚が近江の陣中で没すると、宗鑑は世の無常を感じて出家したと言われています。

その後、淀川のほとりの山崎に對月庵という庵を結び、この土地の名から山崎宗鑑と呼ばれるようになりました。五十代の終わり頃に山崎を離れ、一五二八年、讃岐国、現在の香川県観音寺市の興昌寺の境内に一夜庵を建てて、そこで生涯を終えます。

はじめは連歌を志し、宗祇や宗長といった当代の連歌師とも交わりました。けれども、格式を重んじる連歌の世界は、洒落や滑稽を好む宗鑑には合わなかったようです。連歌師たちは宗鑑の句を卑俗として評価しなかったようですが、宗鑑はむしろその笑いのほうへ歩いていき、捨てられていた句を丹念に集めて『新撰犬筑波集』を編みました。その自由な句風は、後の江戸時代の談林俳諧へと繋がっていきます。

代表句のひとつに、「月に柄をさしたらばよき団扇かな」(月に柄をつけたなら、さぞよい団扇になるだろう)があります。

一夜庵という名は、宗鑑が長居の客を嫌い、一夜より長くは泊めなかったことに由来します。庵の入口には、「上の客人立ち帰り、中の客人日帰り、泊まりの客人下の下」と書かれていたと伝わり、置いてある道具は薬缶がひとつのみだったといいます。

その宗鑑の辞世の句として伝わるのが、「宗鑑はいづくへと人の問ふならばちと用ありてあの世へと云へ」という歌です。現代語訳すると、「宗鑑はどこへ行ったのかと人が尋ねたら、ちと用があってあの世へ行った、と言っておいてくれ」という意味になります。

一五五四年、宗鑑は一夜庵で亡くなりました。癰(よう)という腫れ物を病んでのことと伝わり、「ちと用ありて」の「よう」には、その病の名が掛けられているとされています。自分の死因さえ言葉遊びの種にして、あとは席を立つように出ていく。長居をしない人の、短い言い置きのような辞世の句です。

山崎宗鑑
一五五三年没

一四六五年ごろ、近江国志那村(現在の滋賀県草津市)の生まれと伝わる。俗名は志那弥三郎範重。室町幕府九代将軍・足利義尚に仕え、義尚の死を機に出家した。淀川のほとりの山崎に庵を結び、後に讃岐へ移って一夜庵に住む。座興として捨てられていた俳諧の句を集めて『新撰犬筑波集』を編み、俳諧の祖の一人と呼ばれる。一五五三年に没したとされ、生没年には諸説ある。